はじまりは、無冠帝の故郷である新潟に敬意を表したい。もちろん僕が今、暮らしている土地という贔屓もあるが。
 名実ともに日本酒王国・新潟県には、96社もの蔵元がひしめいている。
「犬も歩けば、酒蔵に当たる」ほどだが、意外にも名のある観光地は少ないと、過去に新潟を訪れるたび驚いていた。
 ほら、思い当たる名を指折ってごらんなさい。
 川端康成の名作・雪国が生まれた“越後湯沢”、上杉謙信ゆかりの“上越高田”、北越戦争の拠点“長岡”、金山めぐりの“佐渡が島”……片手で足りるほどじゃないかな。
 ところが、土地の隠れネタは、土地に暮らしてみなければやはり見えてこない。僕は、新潟に暮らして一年足らずの間、週末になれば、四方八方に足を延ばした。おかげで、そこかしこに隠れている無冠帝的ランドマークを発見した。
「雲洞庵(うんとあん)」は、その筆頭だ。
 このエッセイが掲載される頃、もう読者は、雲洞庵をご存知かも知れない。というのも、2009年 NHK大河ドラマの主人公・直江兼続(なおえ かねつぐ)ゆかりの地・南魚沼市にある禅寺で、彼の信念である“愛と義の心”を育んだ越後屈指の名刹なのだ。
 ちなみに兼続は、戦国大名・上杉景勝の腹心として、ナンバー2な生き方を貫いた。その兜に「愛」の前立てを掲げた、無冠帝な武将だ。
 禅宗の名刹といえば福井県の永平寺を挙げるのが常だった僕は、この雲洞庵の荘厳な山門をくぐった日、寺領に満ちるオーラのようなものを感じ、幽玄な気配にしばし酔いしれた。
 越後の原風景が、そこに佇んでいた。
 遠き年輪を刻む、杉の古木。寂幕と静まり返った禅堂。ゆっくりと漂う読経と香華の匂いが、いにしえの越後国にタイムスリップさせた。
 朱色の山門にほどこされた極彩色の細工が、萌える緑と鮮やかなコントラストを描き出していた。石畳にしみるような蝉しぐれの中で佇んでいると、この門をくぐったであろう先人たちの越後なまりが聞こえてきそうだ。
 そして雪深い冬の山門は、あたかも純白の風景の中でほころぶ椿のように凛としていて、しかし控えめなのである。
「どこかしら……新潟気質を感じるなぁ」
 つぶやいた理由は、僕が新潟に暮らしてから、いろんな酒場で出逢った地元の人たちの横顔を雲洞庵の佇まいに感じたからだ。
 新潟に暮らした当初、とある居酒屋に座った新参者の僕には一人として視線を向けなか
ったし、声も掛けなかった。
幾度かそのカウンター席に通った日、亭主が「あんた、どこから来たの?」と問いかけ
た。
その途端、周囲の常連さんたちは、興味しんしんの面持ちで僕を凝視した。実は、誰も
が気になっていたようだが、自ら声をかけたりしないのが新潟気質のようである。
 そして大阪出身という僕の素性を知り、ひとたび酒を酌み交わしたら、「関西の人って、
おんもしれえな」と昨日までの仏頂面から別人のようになって、屈託のない笑顔を覗かせ
た。
 これほど多くの人なつっこいオヤジさんや優しいオフクロさんがいるのかと、間違った
自分の見識に反省しきりだった。
 彼らの人となりは、表立って目立たないけど純朴な雲洞庵に似ているのである。 
 おっと、話を本旨に戻そう。
ところで、雲洞庵は、そもそも奈良時代の荘園領主・藤原 房前(ふじわら ふささき)によって西暦717年に建立され、鎌倉時代後、曹洞宗の禅寺として上杉家に崇拝されてきた。その悠久の時を語るかのように、寺の座主は四十七世という気の遠くなるような累代を今日まで繋いでいる。
 その霊験あらたかな伽藍に、地元では「雲洞庵の土、踏んだか」という言葉が伝わっている。つまり「一度は、この素晴らしい雲洞庵に行っておかなきゃダメだぞ」ってことなのだ。
 まさに日本の生い立ちを、越後の片隅からじっと見つめてきたわけで、侘び寂びた宝物殿には、その歴史の証人たちが並んでいる。雲洞庵にもたらされた数々の書状には、豊臣家、徳川幕府の名も連なっていた。
 特に、南北王朝期の武将・楠 正成(くすのき まさしげ)は、一族・郎党たちをかくまおうとして雲洞庵の座主に預けた。後醍醐天皇の懐刀として生きた彼も、実に無冠帝だったと言える。
 彼の遺言状は、今も雲洞庵に保管されていて、僕はその訳文に、正成の一途な武士(もののふ)魂と家族への愛を知った。
 雲洞庵の山門を後にしつつ、僕は直感した。
 おそらく、幼少期に雲洞庵で教えを受けていた直江兼続は、あの遺言状に目を通したことだろう。彼は、義と愛に生きる心を、自分より数百年前に生きた楠 正成から学んだのではないだろうか……なぜなら、無冠帝イズムには、永遠の「愛」が不可欠と僕は思うのだ。
 そんな愛が、新潟の人たちには脈々と受け継がれている気がするこの頃なのだ。
(了)